日本の歴代総理大臣がわかる本(その1):岩見隆夫

歴代の内閣総理大臣の順番と名前を覚えている人がたまにいますよね。
特段羨ましい気持ちもあるわけではないですが、戦後GHQの管轄下から今の先進国日本になるまでの道のりに、国家の最高権力者「内閣総理大臣」の存在は欠かせないものであって、その時その時、日本はどんな目標や課題を抱えており、その時代の総理大臣がどんなキャラクターで、どんなことを実行に移してきたのか、ちょっと気になりまして。
今は「真面目に良いものを作ってきた日本」という歴史認識しかない(笑)
なので、歴代の戦後の内閣総理大臣の順番と名前を覚えるわけではないですが(正直覚える意味が、、、)、順番・名前・状況・特徴や実績をこの本を中心に、不足点をウィキペディアやその他の媒体から調べ、簡単にまとめようと思います。

東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)

状況:第二次世界大戦終了後の初代首相唯一の皇族出身の首相。軍人、官僚、政治関係者では終戦処理をすることができないと考え、戦前の政治に関係のなかった皇族に白羽の矢がたった。
特徴や実績:京都出身。組閣二週間後、全国民から「不平不満、私事、公の話でもなんでもいい。手紙をくれ」と宣言し国民を驚かせる。フランス留学の経験もあり、非常にリラベルな発想の持ち主。手紙は1日2千通超えることもあったという。ただしマッカーサーの求める直接統治に反対し、日本政府を通す間接統治を主張し、マッカーサーと対立。日本最短記録の54日で退陣

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)

状況:前首相「東久邇 稔彦」の退陣後、当時の天皇から直訴され総理大臣に就任。
特徴や実績:大阪出身。マッカーサーと幣原による長時間の会議により「新憲法」が想起された。もともと外相だった幣原が盛り込んだのか、マッカーサーに盛り込まされたのかは不明だが、戦争放棄を盛り込む平和憲法が生まれたのはこのタイミング。戦後の首相の中では最も高齢(73歳)での就任

吉田 茂(よしだ しげる)

状況:幣原とマッカーサーによる新憲法草案を元に、憲法を成立せねばならない状況。経済も
特徴や実績:新憲法やQHGからの要望は日本にとって非常に屈辱的な内容であったが、天皇の死守、軍備増強のかわす。中ソから難易度の非常に高い全面講和を求められる中、アメリカと共に部分講和を進めることに成功し、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結。日本の独立が決まった瞬間だ。しかしその翌年、自由党内の内紛(主に鳩山派)によりコントロールを失う。

片山 哲(かたやま てつ)

状況:新憲法下最初の首相指名選挙による総理大臣。自由党が第1党を退き、社会党が第1党となり、片山が総理大臣となった。
特徴や実績:和歌山出身。第1党の総裁として総理大臣になったものの、社会143、自由131、民主121、国民共同29という保守が圧倒的に優勢な議席数。自由党以外の3等で連立を組むことに成功。連立の先駆けといってもいい。連立のため閣内の意見がまとまらず、親任式当日までに閣僚が決まらずに片山が全閣僚を兼任して親任式に臨み、一人内閣でしのぐ。終始GHQの言いなりであったため「グズ哲」と呼ばれる。

芦田 均(あしだ ひとし)

状況:社会、民主、国民共同の3党連立が続く。
特徴や実績:京都出身。党内の支持の弱さや贈収賄事件の被害も受け、七ヶ月の短命で終わる。「第二次世界大戦外交史」など、十数冊の著作を残している。在任中には戦後の日本の針路を基礎づける重要な法案が多く成立しているが、芦田氏が首相としてイニシアチブを取った形跡はほとんどなく、「戦後最も影の薄い総理大臣」と言われている。

鳩山 一郎(はとやま いちろう)

状況:第二次吉田茂内閣の長期政権が終焉。
特徴や実績:東京出身。「友愛」というキーワードが世間に受け鳩山ブームに。ソ連との国交回復のため、モスクワを訪問。日ソ共同宣言に調印(日ソ国交回復)、これを花道に内閣総辞職。

石橋 湛山(いしばし たんざん)

状況:岸信介を破り、2代目の自由民主党総裁に。
特徴や実績:東京出身。東洋経済新報社の元社長。言論人として「日本は世界の経済大国になる」と予言し的中。政治家になってからは戦勝国アメリカに強気の要求をし、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、公職追放令によりGHQによって公職追放された。政治家として復帰後、総裁選にて岸信介を破り、2代目の自由民主党総裁に。病気により65日の短命政権で終わる

岸 信介(きし のぶすけ)

状況:病気だった石橋に変わり総理大臣に指名される
特徴や実績:山口出身。東条内閣の一員だった岸は敗戦後A級戦犯として巣鴨プリズンに3年収容される。出所後4年で総理大臣に。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語に。在任中最低賃金法と国民年金法を成立させる。これまで公務員や大企業の社員しか恩恵にあずかれなかった公的年金の受給対象を全国民に広げる画期的なものだった。社会保障の礎はこの時期に作られた。安保闘争と差し違えて岸政権が終わる。

池田 勇人(いけだ はやと)

状況:在任中は、実質経済成長率と国民総生産(GNP)が前年比10%以上上回る岩戸景気から始まり、オリンピック景気の終了時まで。
特徴や実績:広島出身。安保・外交や憲法などを、外向きのスタンスを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として披露。内需増強に力を入れ、高度経済成長に注力。「所得倍増計画」を争点に衆議院選に臨み、戦後過去最高の301議席を獲得。所得倍増政策の一環として、国土計画の第一歩である「全国総合開発計画」(全総)を発表(1962年10月)し、太平洋ベルト地帯の形成を始める。自由貿易の思想を持っており、首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げ。選挙区内のレモン農家(広島県のレモン生産量は日本一)までを敵に回した。ノリノリ。いわゆる自民党の絶頂期。しかしガンのため辞任。翌年死去。

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